現代の「香り」はファッションや暮らしの中で欠かせない存在ですが、平安時代の貴族たちにとっても「香り」は重要なものでした。奈良時代には仏様への供え物としての「供香」が主でしたが、平安時代になると香りを趣味や自己表現の一環として楽しむ文化が貴族たちに広がっていきます。今回は平安時代のお香文化、特に「薫物(たきもの)」を中心に、その雅な世界をご紹介します。
仏教の伝来と共に日本にお香が伝わり、奈良時代には「供香」として仏事に用いられていました。しかし、平安時代に入るとお香は貴族たちの日常生活にも浸透し、香りの調合や創作が教養や財力、センスを表現する手段として扱われました。特に10世紀から11世紀にかけて、香木や香料を調合した「薫物(練香)」が誕生し、貴族たちの間で香りを楽しむ文化が一層発展します。
「練香」とは、香木の沈香や白檀に、丁子や麝香などの香料を加え、蜂蜜や梅酢、炭粉で練り固めた香りを炭火で炊いて楽しむものです。貴族たちは香料の調合にこだわり、独自の薫物を創り上げることでセンスや教養を競い合いました。中でも「六種の薫物(むくさのたきもの)」と呼ばれる、「梅花」「荷葉」「侍従」「菊花」「落葉」「黒方」は、特に洗練された香りとして後世に受け継がれています。これらは『後伏見院宸翰薫物方』といった香道伝書でも春夏秋冬の季節感に例えられ、香りの奥深さが表現されています。
紫式部の『源氏物語』には、香りが貴族たちの日常や感情表現に深く関わっていた様子が描かれています。例えば、女君や源氏が調合したお香を披露し合い、優劣を競う「薫物合せ」の場面が登場します。登場人物ごとに異なる香りの趣向が語られており、斎院の黒方は「奥ゆかしい」、源氏の侍従は「艶やかで優美」、紫の上の梅花は「当世風で若々しい」とされ、それぞれの個性や教養が香りを通じて表現されています。
また、伏籠や香炉を用いて空間全体を香りで満たす「空薫物(そらだきもの)」も貴族たちに親しまれていました。清少納言の『枕草子』では、良質な薫物を焚いて横たわる様子や、香りをまとった衣を楽しむ様子が描写され、香りが優雅な生活の一部だったことがうかがえます。
平安時代の宮中では、女性たちが御簾の奥や扇越しに会話することが多く、香りが視覚に代わる自己表現の手段として重要視されました。香りは、身に纏うことでその人の存在感を際立たせるだけでなく、すれ違った後にも香りを残し、余韻として相手の記憶に刻まれました。貴族たちにとって香りの調合や選択はまさに「アイデンティティ」であり、自分を伝えるための表現方法でした。
平安時代に花開いたお香文化は、貴族たちの生活に密接に関わり、教養や美意識を象徴するものとして発展しました。香りの調合や「六種の薫物」といった香文化は単なる嗜好品にとどまらず、日々の生活や人間関係にも大きな影響を与えました。現代でも、天然のお香を楽しむことで平安時代の雅を感じ、生活に香りの彩りを添えてみるのはいかがでしょうか。